山田屋写真用品のカメラきんちゃく袋は全ての矛盾をも包み込むのだ

 どうも理解できないことがある。世の中で、リベラリストと言われてる人たちの言動だ。

 それぞれが主張するのは勝手だ。護憲でもなんでもいい。だが、リベラルなのに、その人らと違う意見を述べる人たちに対して、徹底して反論して意見を潰そうとする。それで、平和と自由を愛するという感じになるのであろうか。同様に、組織を嫌うのはいい。だが、組織を嫌う人たちで徒党を組むのは、もはや組織作りをしているということではないだろうか。無所属の会、とかネーミングとしてはかなり矛盾をはらんでいるのではないのだろうか。

 yamadaya.JPG高校生の頃の話で恐縮だが、非常につまらない時代小説を書いてみたことがある。主人公の武士が剣に志を立てて、ある流派の道場に入りメキメキ腕をあげた。だが、その流派特有の組織としての雰囲気に嫌悪感を抱いて、山にこもり自己流の剣を完成。それで、道場破りを繰り返し名を響かすのだが、気がついたら自己流の自分の剣を真似るものたちがいて、いつの間にか自分が流派という組織を作ってしまっていたというストーリーだ。

 最初は喜んで書いていたのだが、そのうち面倒になり、かつ読み返した時の、あまりのつまらなさに書くのを止めた。

 もっとも、こういうことは往々にあることだ。この剣術の話にしたって、塚原卜伝創始の新当流だって、もともとは自分の流派を当流と言っていたのであって、特別に名前をつけていなかったらしい。それを新たに太刀筋を加えたので、新当流にしたという説もあるくらいだ。この動きは、宮本武蔵なんて顕著で、彼の剣術は父親から若干の手ほどきを受けただろうが、多くは道場を渡り歩いたり、あるいは真剣勝負の中で工夫し、修練を積んだ自己流の剣術だ。二天一流とか、どう考えても後からつけた気がする。

 ただし、塚原卜伝も宮本武蔵も、自己流がいつの間にか正式な流派になり自分を中心に組織を作ることを拒絶はしなかった。とは言っても、もともとは自己流なのだから、当たり前だが、同じくらいの技量の後継者は育たなかった。矛盾の結末だ。

 いずれにしても、どんな人間でも偉人でもいつしか、こういう矛盾のようなものは抱え込んでいる。もちろん、それに気がついている場合があるが。こればかりは、どうしようもない。結果、そのあたりは適当に考えたほうがいいということになる。

 そう。適当とか適度がいいのだ。あまり追求しても答えがでない。人も認めるが、自分の主張もするとか。自己流の剣術を立ち上げて研鑽を積むが、それを真似て勝手についてくる人が居ても拒否はしない、とか。ニュートラルに近くやってみればいいのかもしれない。

 ところで写真用品である。山田屋写真用品から、帆布カメラきんちゃく袋のLサイズが発売される。これまでのきんちゃく袋も売れていたのだが、今回のサイズにより明確に一眼収納がターゲットになる。内側ポケットも二箇所ついているのもいい。その、きんちゃく袋だが、表は帆布でしっかりしているものの、裏地はふかふかのポリエステル生地となっている。つまり、表側と裏側で硬軟のバランスをとっているのだ。この適度さがいい。

 まさに、山田屋写真用品のカメラきんちゃく袋は全ての矛盾を包み込むふかふか生地がいいのだ

 しかし・・今回のフォトアクセサリービレッジことPAVは盛況だったよな。もうすっかり定着していた。特に感心したのはベルボンのマタさんのセミナーだ。ジョーク混じりで三脚について語る彼の姿勢に感動した。人間として大きくなったよなぁ。。腹回りとともに。。
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