マルミ光機のND100000は世界を明確にするフィルターなのだ

 ちょっと私的なことで関連があったのだが。不動産取引特に土地取引について考えてみたのだが。なんと、不透明でかつ油断のならないものだろうか、と改めて感じた。

 まず、不透明という部分で言うと、民法上でも堂々と二重譲渡を認めているところだ。例えば、A男さんが、3000万円くらいの価値の土地をもっていたとする。現金が欲しい彼は、それをC三郎さんに売った。まぁ、ここまではいい。単なる取引だ。だが、さらに欲が出たA男さんは、それを全く別のB史郎さんに売った。つまり、ひとつのものを二人に売るという摩訶不思議なことをやってのけたのだ。こんなの普通に考えればありえない。が、民法はこれを認めているのだ。もちろん、その理由付けとしては、土地は最初のC三郎さんに売った段階でも不完全な形でしか所有権は移っていないとみなされるからだ。逆に不完全だけあって、最初に持っていたA男さんにもまだ所有権は残っている。だから、それをB史郎さんにも売れるというわけだ。これはこうなっているとしか、言いようがない。だが、である。普通に考えれば、こんな滅茶苦茶な話はない。まぁ、これはこうなる状態を改善するために登記という話が出てくるのだが。それはどうでもいい。これでは、世の中の何を信じればいいのかわからなくなる。

emedama_4957638075695.jpg油断のならないという点では、目に見えないものがついてくる可能性があるからだ。いや、地縛霊のような類のものではない。抵当権という借金のカタがついてくるということだ。知らずに、こういった土地を買ってしまったら始末が悪い。そうそうに、この権利を行使されて取られてしまいかねない。もっとも、これもだからこそ登記制度があり、これを事前に調べようということになるが。そんなことはどうでもいい。いずれにしても、油断ならないことであることは確かだ。

堂々とこれらが、まかり通っているのだから日本は真の意味で法治国家ではなく放置国家かといいたくなる。

土地取引などといった純粋に権利関係が取りざたされる行為にもこういう部分があるくらいなのだから、ましてや人間のように感情が読めない存在の行動などは不透明このうえなさそうだ。

今さら書いても仕方ないことだが。世の中、不透明で油断がならない。そんな世界の中に、われわれは生きているという言い方もできるかもしれない。

だが、そんな薄暗い世界を正しくとらえるような撮影用アクセサリーはある。日食などの際にも明確な撮影ができるマルミ光機のND100000 である。とりあえず、今月には部分日食もある。そういう時に抜群に使い勝手がいいのだ。

まさに、マルミ光機のND100000は世の中をしっかりとらえられるフィルター、なのだ。

しかし、本当にそうだよなぁ。理不尽でも先行き見えなくても、なにか自分の視点にフィルターをかけていけば正確にとらえられる場面はあるかもしれない。。 emedama_4957638075695.jpg
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GODOXの新小型LEDは軽さも含めて光あふれる品なのだ

 自分を分析すると、どうしても軽薄で器が小さいという部分が目につく。まぁ、これは仕方ない。だが、こちらの性格についてはともかくとして。この軽いと小さい器というのは、本当に一般的にはマイナスなのだろうか。ちょっと考えてみた。

4961360038903.PT05.jpgまず、軽いという部分である。これはいちがいに欠点とはいえない。例えば、豊臣秀吉である。どうみても、彼は軽い。いや、瞬発的な頭のキレや行動力は一流だ。だが、なんというか長期的に見通して行動するとか。そのあたりは、非常に浅い部分がある。つまり、軽いのだ。なので、晩年に至り、得意の頭の良さや行動力が発揮できなくなると、信じられないほど酷薄で途方もない夢を軽々しくスタートさせた。結果、日本国内は大変な目にあうのだが。もとはといえば、彼の軽々しいところが原因だ。もっとも、少なくとも、その軽さで天下はとれたのだ。軽薄も必ずしもマイナスにはならず、場合によっては利点になる。重々しすぎると、信長みたいに恨みも買う。

一方、器の小ささという部分はどうだろうか。その例として、源義経がいる。彼は、天才的な軍事の戦術家ではあった。固定概念に縛られない合理主義的なところもあった。だが、どこか器が小さい。少しはじっとしてればいいものを、兄貴である頼朝に嫌われたという噂を聞くと、泣きながらかけつけ、挙句の果てに面会を拒否される。さらに、その精神状態につけこまれた勢力に利用されて、挙句の果ては東北の地で死を迎える。最初に自ら動かずに、頼朝の動きを探り、対処するか。どうしても対立しなければいけなくなったら、京都をすべて味方につけて、反頼朝勢力を糾合し対峙してみてもよかったのだ。軍事の天才だが、器の小ささを感じる。もっとも、これも秀吉同様に器が小さくても、一応は名を残したのだ。

他にも例をあげようと思えば挙げられる。軽薄で器が小さい部分というのは、意外に使えるのかもしれない。

ところで写真用品である。ケンコープロフェショナルイメージングは6月5日にGODOXブランドで小型で軽量のR1ミニクリエィティブLEDライトを発売する。軽くて小ささが扱いやすさという特徴に表れている。さらに、軽くて小さいながらカラフルモードと豊富な特殊効果モードを装備している優れモノだ。

まさに、ケンコープロフェショナルイメージングの小型LEDライトのR1は軽さも小ささも魅力の品なのだ。
しかし、本当にそうだよなぁ。確か、高名な作家も軽薄のススメという本も書いている。軽かろうが、小さかろうが。まずは、世の中を生き抜くことが大事なんだろうなぁ
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山田屋写真用品の中仕切りパッドTWシリーズは真の批評家が喜ぶ製品だ

 既に故人となったが、ある文芸評論家が書いた文章が頭に残っている。ジャンル問わずに、批評家のあるべき姿勢について述べた部分だ。彼曰く批評家は、地下でもなく二階でもなく、常に一階の部分に居るべきものだと。『一階にとどまり、のほほんと机の前に身を置きつつも、地下一階の感覚、さらには地上二階の感覚を常に失わないでいる」。この姿勢が肝要だと。

山田さん②.jpgまぁ、深遠なる哲学的な話は、こちらには理解できない。が、自分なりに現世界的視点から解釈するとこんな感じか。社会的な弱者としての視点ももちつつも、権力者や経済的に恵まれた層の考えも理解できる、そういう資質、姿勢こそ批評家のあるべきものではないか、ということか。

そう解釈してみて、真っ先に頭に浮かんだ人物が、奈良時代初期の歌人である山上憶良である。彼は、もともと天皇家の侍医を務めた渡来人の子孫とも言われている。貴族社会では正統派ではないが、一応王家とはつながりはある。そのため、下級役人には就けた。だが、そこまでである。待っていても出世はできないし。政治力のようなものが備わっているわけではない。

おりもおり、世情は気候変動などの環境悪化も加わり、税を搾り取られる庶民の生活は苦境を究めた。下級役人として、その惨状をリアルに見た彼は、状況を歌という形であらわした。貧窮問答歌である。この時代は、社会批評などの明確な著作は日記程度のものであり、目立っていなかった。ましてや、社会評論家のような形で、食べていけるようなものは居なかった。なので、実質的には彼こそその当時は一流の社会評論家であり、筆致がリアルなジャーナリストだったのかもしれない。総じていうと、真の批評家か。

特に、彼の筆を支えていたのは、先に書いたように一階の机に居るという不動の立場ではなかったろうか。貴族の考え方も聞ける。もちろん、庶民の苦しい生活も実感として理解できるのだ。逆に考えれば、こういう下級役人という一階の地位にいたからこそ、上も下も理解できる柔軟さが発揮できたのではないか。

ところで、写真用品である。そういう意味では、ニュートラルなパーツという性質をベースに柔軟な動きを示せている商品がある。山田屋写真用品の中仕切りパッドTWシリーズである。説明したとおりに、カメラバッグやインナーケース用のスペア・追加用中仕切りパッドである。2個の仕切りパッドを連結して制作されているのが特徴で、このために90度に曲げられて、うまくレンズを保護できるのである(写真)。まさに、中仕切りパッドという常にバッグの底の上にくっつくという立場をベースに、商材をフレシキブルに支えられるのである。

山田屋写真用品の中仕切パッドTWシリーズは山上憶良のような役割を示す製品、なのだ。

しかしだ。この欄でも取り上げたが、SNS上で過激な保守的言動をするシニア層だが。意外に真の批評家かもしれない。あくまで国家主義者として上からの考え方は賛同している。その一方で、自分に被害が及ぶような内容の事態が迫ると、人権などを主張してくる。まさに、一階部分に居る批評家の面目躍如的な動きかもしれない

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ベルボン取扱のスワロフスキーのカメラ機能付単眼鏡は新時代の製品なのだ

 新型ウィルスの感染拡大とその抑止のために、あらゆる面で社会生活の変化が余儀なくされた。結果、社会の在り方というかライフスタイルの変化も生じてきた。

210111.Z1.pngこのライフスタイルの変化が生じると、当然に価値観が変わる。例えば、テレワークという在宅勤務で意外に仕事がカバーできるという事実も明らかになった。もちろん、それに伴い、仕事の内容も変化している。ある有能なベテラン営業マンは、今までは定期的に取引先に顔を出すというのが重要であったものの、最近はテレワークが双方の常識になり、相手方も数字や条件のみを取引材料としてみるようになったという。営業は足で稼ぐ、そんな事実はもう完全に変わろうとしている、と語っていた。写真業界だって、展示会が次々と中止になる中で、動画配信による情報告知が主流になりつつある。ライブ中継し双方向にすれば、ある意味リアルセミナーとなる。

これらは、あくまで目に見える部分であるが、目に見えない部分も変化してきている。なんというか、価値観のようなものだ。なにか、今までの常識は常識ではないということを、多くの人々が心から認知しだしたのだ。もう、飲み会だってリアルではなく、オンラインでよいということにもなりそうだ。まぁ、終電も気にしなくていいし、大酒呑みと弱い人々が同席した場合の割り勘の不公平感もなくなるが。

これらは、新型ウィルスによるものが大きいが。これとは別に、高齢化社会の到来というのも以前から価値観を変化させつつあった。これらが合わさり、それぞれの変化が後押しされた気もする。

特に、高齢化社会の到来の中では、物事は貫徹しなくてもよい、という新概念が台頭してきていた。今まで、特に日本などでは、あれこれ手を出さずにひとつの道を追求しろと言うのが大きな柱であった。だが、それらが完全に変化した。今や、多くのものに手を出してもいい。二兎を追うものは一兎をも得ず、などというのは中国古典の話で、何兎も手を出しても良い。それで、うまくいかなくても楽しめればいいのではないか、ということだ。つまり、高齢化社会のシニア層は自分を追い詰めずに、緩やかな視点でいろいろと行動していいのではないか、ということだろう。

テニスを楽しみつつ、一方で俳句に手を出してもいい。絵を描く一方でゲートボールを日課にしてもいい。それらを追求しなくて、すべてうまくいけばいいし、総合的に楽しめればそれに越したことない。ある意味、軽い発想で人生をエンジョイしようという流れだ。

まぁ、もともと人生などは楽しんだもの勝ちなのだから、これは納得できる在り方のような気がする。

ところで、写真用品である。ベルボンが取り扱いのスワロフスキーブランドの新製品として、「dG8×25」を提案した。カメラ機能付きの単眼鏡だ。スマートフォンと連携することで“撮る×調べる×共有”が可能になり、バードウォッチングをより楽しめる製品となっている。ハイクオリティな見え味を楽しみつつ、観察の合間にメモ代わりに撮影をしたり一人が観察している内容を手元の端末で複数人で共有する、というような使い方も可能だ。店頭予想価格は270,000円だ。これなどは、まさに広い楽しみが提案できるこれからの時代の製品なのかもしれない。

まさしく、ベルボン取り扱いのスワロフスキーのカメラ機能付単眼鏡はこれからの時代の製品、なのだ。

しかし、本当にそうだよなぁ。これからは、なんでもやって楽しんだものが勝ちの概念が強まるのではないか。楽しさを基準だ。こちらも、好きなようにちゃんぽんして呑もう。
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KANIフィルターは老子流で実績を伸ばす製品なのだ

 いくら計画的に意図的な行動をしようとも、不作為で行くものには最終的には勝てない。古代の哲学者の老子も言っているが、無為自然が一番強い。

Obtuse%20triangle%20GND%200.9%20100x150mm%20個装箱写真縮小.jpg これは、商売についてもそうで。明治に入り、商売で大成功した元武士が自分の剣術の恩師に語っている。「商売を始めたころは、いくら計画的に計算して手掛けてもうまくいかない。そこで、開き直り、もう儲け云々ではなく、良い仕事をしようと心掛けた。そうしたら、かえってうまくいったのです」と。これを聞いた、恩師は閃くものがあった。永年試合をしていても勝てない相手がいる。何故か、うまくいかない。だが、己の心を見てみると、勝とう勝とうとしていた。そうだ。そんなことより、良い試合を心がけようと考えたらどうか、と。結果、相手をして『及びません』と剣を引かせた。その恩師こと山岡鉄舟が書き残している。

その少し前には、坂本龍馬の書いた手紙がある。この手紙、現存しているのをみると、かなり面白い。逆に、同時代人の西郷隆盛でさえ、残っている手紙は格調高いが堅苦しく、正直面白くはない。これは、他の偉人たちも同様だ。その要因として、考えられるのは、龍馬は手紙を残すことを全く考えておらずに、好き勝手に書いていたからだ。無欲の天真爛漫な手紙は人を楽しくさせるのだ。

さらに、時代は上って吉田兼好法師だ。彼の名著である徒然草だが、残しておくつもりで書いたものではない。彼が、適当に反故紙に気まぐれに書きつけていたのを死後に友人や弟子やらが、部屋を整理している際に見つけて、集め編集しタイトルをつけたものだ。そのせいか、何とも言えない味わいのある文章が出来上がっている。

そういえば、現在の写真用品メーカーで起業して成功している経営者が語っていた。以前は、経営が苦しい時には家族への生活費などを計算して、夜間にバイトをしていた。だが、ふと思ったという。こんなことをしていても、寝不足で仕事をすることになるだけ。どれが、本業かわからなくなる。そこで、思い切ってやめて損得ではなく、ただ本業に邁進しようと。結果、あれよあれよと業績が上向き、夜間に働かなくてよくなった。

儲けとか、利益とか、計算とかしていたら、ある程度はその範囲でうまくいくが。どこか、頭打ちになる。最終的には、損得ではなく仕事に邁進することだ。最終的に勝つのは無為自然の指針なのかもしれない。

ところで写真用品である。本欄でもたびたび取り上げているKANIフィルターから、新製品であるPremium Obtuse triangle GND 0.9 100x150mm、Premium CPL 150x150mm、Premium Vivid CPL 82mmが販売となった。このうちPremium Obtuse triangle GND 0.9 100x150mmは、横構図で両サイド街並み、山並みの間から日が昇るようなシーンで使用できるようなグラデーションフィルター。かなり、面白い製品だ。さらにいえば、このKANIフィルターの魅力というのは、製品だけではなく、真に良い製品を儲けなどを、とりあえずおいておいて市場に提案することだろう。結果、同製品の売り上げは、この時期にも関わらずにプラスとなっている。

まさに、KANIフィルターは老子哲学にのっとった姿勢で実績上げている製品、なのだ。

しかし、本当にそうだよなぁ。。作為は失敗するよな。いくら、酒を一滴たりとも呑まない聖人君子を気取っても、一日で崩れるし・・。
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