ケンコー・トキナーのペット写真用のディスプレイボックスはリベラルアーツを身に着けた人材の開発の品だ

 直接的には役にたたない、実務と直結しないことへに浸ることは意外に重要だと改めて思った。ある本で、日本は何故成長が止まったのかを海外の機関がかなり力を入れて調査した内容を読んだのだ。

それによると、一見、実務に直結しない芸術や哲学、基礎研究的なものを軽視する傾向になったからdisplay_box_products2000-thumb-autox600-47082.pngだという。これらよりも、実務直結の社会科学系の学問や製品開発に直接結びつくような応用研究のようなものに比重を極端に置いたからではないか、と言われている。要は、今さかんに言われだした、リベラルアーツと言われる点を軽く見たからということになる。

その理由はわかる。さかのぼれば明治時代の動きからだからだ。当時の政府の方針は、あくまで富国強兵である。ともかく、文明開化に触れた国は欧米に追いつくことを急務にしていた。その際には、重視したのは書いたように、実務に結び付く専門的知識の習得である。なので、とりあえず様々な形態の専門学校が林立した。その一方で、リベラルアーツというものを行う教育機関はあったが、それは帝国大学くらいだった。結果、その専門学校が大学化したのだから、教養課程を設けたところ基本は専門的実務家養成の色を濃くしてきた。

これは、当時の元勲と言われる人間たちの誤算でもあった。というのも、彼らは欧米においつくために、基本であるリベラルアーツの重要性を考える余裕がなかったのだ。もっとも、短期的には彼らの目論見通りにうまくはいった。だが、国家というのは永く生きていく。当然、ほころびができるのだ。ちなみに、彼ら自身は既に若年より四書五経などリベラルアーツを徹底的に行っていた。だから、国家のグランドデザインもできたのだが。その効用に気がつかなかったのだ。

結果、国はリベラルアーツを軽視しており目に観えない弊害が、確実にあがってきた。では、このリベラルアーツが足りなくなった弊害は具体的にはどこに出ているのか。

その点では、少し国の成長云々とは関係ないかもしれないが、パワハラについての問題がある。まず、やるほうだ。これは、明らかに倫理観というか、相手の気持ちを慮る配慮にかけている。これは、文学や芸術なので繊細な神経部分を発達させないと、ようように培われない点なのだ。で、さらにやられる側。パワハラを受けると、多くが追い詰められてしまう。それは、職場なりが絶対的世界と思い込んでしまうからだろう。だが、果たしてそうなのか。幅広い世界の分野に触れていれば、そういうときに追い詰められても、ふと他にやりようがあったりとか別の世界がある、と考えられるようになるだろう。

その土壇場になったさいの柔軟性を持てるかもてないか、この部分はリベラルアーツというか、幅広いものを勉強するなどして視野を広く持っていれば、決定的には追い詰められないのではないだろうか。これは、なにも大学で教養課程をしっかりやりましょうなどということを言っているのではない。例えば、日頃から幅広い読書をしていてもいい。社会人サークルに入って多様な人々と付き合いがあるのでもいい。様々な趣味の分野でもいい。ともかく、仕事以外の何か別のものに深く触れてきた人間は余裕というか柔軟性が生まれるのだ。

ところで、写真用品である。ケンコー・トキナーからユニークなディスプレイボックスが発売された。もともとフレームのカテゴリーなので、写真を飾れる。だが、それだけではない。それと同時にペットの使っていた愛用の品などを収納することができるのだ。これは、やはり目の付け所が違うというか、地味ながら実にユニークは発想の品だ。こういうものは、やはりリベラルアーツをしっかりと身についてないと開発できないのかもしれない。

まさに、ケンコー・トキナーのペット用ディスプレイボックスはリベラルアーツを身につけた発想の品だ。

しかし、本当にそうだよなぁ。だいたい、会社でうつ病になるタイプというのも仕事熱心な真面目な人間が多い。どこかで、柔軟性があれば対応もその後の行き方も考えられるだろうからなぁ。。
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