山田屋写真用品の革製カメラケースは等身大の歴史上の人物を感じさせる雰囲気がある

 少し更新が遅れてしまった。なかなか、文章を書き始めるというのは辛いものがある。いや、書き始めたら一気にいくのだが、それに入るまでが大変だ。無駄に、動画を観たり本を読んだりしてしまう。なにか、集中することへの恐怖みたいなものもある。

なので、この書くということを商売にしている小説家という人々には頭が下がる。こちらみたいに、4560440974942.jpg取材したことを書けばいい、というものではない。そこには、自分の頭でひねり出すというクリェイティブさが必要となるからだ。そんなものに全神経を注ぎ込める人種と言うのにはおそれを抱く。

ただし、だ。小説はたまに読むが、一部の小説家の独特の思い込みというか、そういう姿勢には否定的な感じを抱くことはある。特に、歴史小説家である。あくまで、フィクションであり小説だと考えて、歴史を解釈するならいい。だが、時として、それが本当のことだと言い切る場合がある。例えば、徳川家康の正室である築山殿に関する事件に関して書かれていたものだ。なにか、築山殿自身が現代にあてはまりそうな感覚を持っていたりするように描写されている。だが、それはどうも実際ではない。

彼女は裏切りを企んで、いや、最近の定説では家臣たちの分裂の一方の旗頭に担ぎ上げられて、それに対応した結果、家康に処断されたと考えるのがつじつまが合う気がしている。それなのに、ある小説では家康への恨みを語って、子である信康を処断しようとしている家康への恨みの言葉を残していた。だが、そういう感情は当時の女性は持ったのだろうか。それよりも、唯一、記録で残っている言われる築山殿の最期のセリフとして、無理に介錯をしようとした家臣に対して「女とは言え、私はそなたらの主だ。こんな仕打ちは許しませんよ」と語っていたそうだ。気位の高い部分も彼女らしい。

もちろん、小説の世界なのだから、これはこれでいい。だが、作家が自分が造形した歴史的なものを真実だと思い込んでしまう。なにか、その強烈な思い込みが好きになれないのだ。いろいろと言われているが、その点では司馬遼太郎さんはさすがに凄いと思う。坂本龍馬を書いた際に、竜馬と書いて、別人格として表現している。自分の造形した人物を少し距離を置いて見ているのだ。読者の人々が、それを実際に存在していた坂本龍馬と混同するのは、それは勝手なことだ。

もちろん、坂本龍馬は竜馬のような人物ではない部分もある。だが、小説と共通する部分もある。つまり、実際の人物像は歴史的に存在した坂本龍馬と小説のヒーローである竜馬との間くらいにあるのではないか。ここをどちらでとらえるかが、歴史家だったり小説家だったりの違いがあるが。真実は、その中間にあるのではないかと思う。築山殿についてもそうだろう。気が強いが実はストレートなまっすぐな女性と、プライドの高い名門意識の強いタイプ、その中間くらいなのが真実に近いのではないだろうか。だが、どちらかに振れないと物語にはならない。そこで、つくられていくのだが。すくなくとも、その姿を距離を置いて楽しく見るのではなく、真実だと思い込むのはおかしいのではないかという気がする。まぁ、歴史家でもないし小説家でもない、ただの凡人の感想だが。

ところで写真用品である。以前にも取り上げたが。山田屋写真用品から、カメラ用ケースの革バージョンが発売された。この商材を見てつくづく思ったのだが。ここの発売する商材は、一見、平凡ながら実は特徴的で光るものがある。他にも、フィルムケースがあるが、これも高級な雰囲気の革製品にするなど、どこか平凡なテーマながら輝きを持たせているのである。そこが強みである。前述したような史実でも小説でもない、現実の歴史上の人物らしき、血の通ったものが感じられる。

まさに、山田屋写真用品のカメラ用革ケースはリアルな歴史上のヒーローを感じさせるのだ。

しかし、本当にそうだよなぁ。どうも、近年、徳川家康の新たな資料発掘で人物像が塗り替えられているが、実際は狸親父のごとき策謀家でもなければ、平和な世の中を創ろうと奮闘した英雄でもないし、優等生型の真面目でコツコツと同じ失敗をせずに、先例を頭に叩き込みながら世の中を渡った努力型の人間ではないか、という気もする。


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