フォトプロの縦横変換プレートはふと手にしてしまう写真用品だ。

  人は何もかも無くした場合は、どうするのだろうか。いや、これは戦争などの全ての人を巻き込んで起こったものが要因ではない場合だ。皆同じ状況だと、喪失感もあるが、なにやら一体感というものが生まれて気力が湧いてくる場合もあるだろうから。

問題は、個人が無くした場合だ。他の人らは持っている。ただ、自分だけが無くした際だ。このなくフォトプロ新製品.jpgすというのは、天災的なものではない。それは不幸であるが、不幸ということでどこか納得できる。そうではない。例えば、職場は何らかの事情で追われ、家庭はなにやらのことで追い出され、職場など社会生活に密着した関係の知人からは断絶する。

この場合は、他人には関係なく、幸せな世帯はいるのだから、ある意味絶対的な孤独に陥るわけだ。その時、人ってどうするのだろうかな。この質問を、若い世代にしたことがある。彼は、しばらく考えたのち『自分はモノを何か作ったりすることが好きだから、多分、そういうことに没頭するかな。仕事は食べるだけのアルバイトでもして」と言っていた。

そう、こういうものかもしれない。よく、何もかも無くすと生きる気力もなくしてしまうと考えられる。確かにそうだろう。だが、人などというのは、簡単に死を実行できないのだ。いや、死に進む人間というのは、そういうモノではないことが多い。する人間は、表面的には何もないのにしてしまうことが多い。

いずれにしても、死にも進まない。それでは、何をするのかというと。まずは、食うための動きはする。これは、当たり前だ。生活はするからだ。そのうえで、手にするものは何か。やはり、なんとなく身近でかつ、潜在的にやりたかったことなのだろう。例えば、絵が好きだった人間は、なんとなく絵画を嗜んでみる。身体を動かすのが好きだった人は、とりあえずランニングに凝ってみる、とかだろう。坂口安吾先生は、堕落論のなかで、落ち切ってしまえば上がれる、と書いたが。その上がるきっかけは身近な、かつ自分に向いている簡単なモノではないか。

ところで、写真用品である。そう、そういういろいろなモノを手に取り写真を楽しんでいた人が、いろいろとあって、カメラ趣味を軽くにしようとして経過したのち、手に取る用品といえば、フォトプロの縦横変換プレートではないか。縦横構図を瞬時に変換するアクセサリーである。案外、空白な精神になったら、こういうアクセサリーを手に取り、なんとなく楽しみでするカメラの趣味を復活させるんじゃないか。

まさに、フォトプロの縦横変換アクセサリーは空白の精神でふと手に取れる写真用品だ。

しかし、本当にそうだよなぁ。でも、何もかも無くした時こそ、人は本当の自分を見ることができるかもしれない。やはり、堕落論のように無から立ち上がれである。
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