KANIフィルターの新ホルダーシステムは覇道を突き進むロカユニバーサルの新兵器だ

 過渡期というか、時代が動くときには様々な現象が起こり、様々な集団や人物が入り乱れるものだ。今までの秩序が壊れて、新たなものが生まれるから、そうなるのだが。歴史的に見ると、この時ほど面白い時期はない。

巷間言われるように、戦国時代などはその典型である。もともとの貴族など血統の良い人々が土着化kanikunn.jpegした守護大名たちの勢いが弱まり、ある意味有象無象な人物が天下を取っていく。とはいっても、全くの在野の集団では駄目である。やはり、そこは有力貴族の縁続きというか、そういった皮をかぶらないといけない。

そういう観点でみると、戦国大名といえども、言われているほど慮外者ではないことがわかる。特に、新たな資料が次々と発見されており、明らかだ。例えば、下克上の祖と言われる小田原の北条早雲については、今まではただの浪人が戦乱の関東に下り成り上がった、と言われていたが。資料の発見により、実は伊勢氏という名門の家の出で、要は中央の高級官僚が地方の首長選に打って出たくらいの感じであったことが明らかになった。秩序は崩していないのだ。また、同じく下克上の斎藤道三だって、一代で成り上がったのではなく、あれは親子二代の流れであることがわかった。いきなり、徒手空拳で上にいったのではない。そういわれると、あの織田信長だって、いきなり出てきたと思われるかもしれないが、実は名門斯波氏の被官の家柄だ。まぁ、陪臣の陪臣といったところだが。

だが、いずれにしても、こういうことをして名を挙げた人物には共通した点はある。覇道を貫く徹底した気力というかエネルギーだ。何もない荒野を開拓し突き進む、そんなパワーというかエネルギーを感じる。

ところで、写真用品である。こういうパワーを特に最近感じるのはロカユニバーサルデザインである。KANIフィルターでお馴染みの同社だが、ともかく未だ未開拓状態であった我が国の角型フィルター市場に突き進み、覇を誇っている。ここの動きを見ると、ともかくエネルギーの塊の覇道を行く信長を連想する。特に、新製品であるフィルターホルダーシステムのHTⅣは、フレーム仕様のフィルターシステムで、ホルダーに取り付けるCPLもマグネット仕様になっている。フレーム部分もアルミ削り出しであり、いかにも強さと精度の高さを感じる。

まさに、KANIフィルターのHTⅣは覇道を行くロカユニバーサルデザインの勢いを感じさせる商品だ。

しかし、世の中、覇道が通用する時代だよなぁ。その後に、新たな秩序が形成されいていくが、その新たな秩序の中でも、ロカユニバーサルは一角を担うんだろうなぁ。。変化を繰り返しながら。
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フォトプロの縦横変換プレートはふと手にしてしまう写真用品だ。

  人は何もかも無くした場合は、どうするのだろうか。いや、これは戦争などの全ての人を巻き込んで起こったものが要因ではない場合だ。皆同じ状況だと、喪失感もあるが、なにやら一体感というものが生まれて気力が湧いてくる場合もあるだろうから。

問題は、個人が無くした場合だ。他の人らは持っている。ただ、自分だけが無くした際だ。このなくフォトプロ新製品.jpgすというのは、天災的なものではない。それは不幸であるが、不幸ということでどこか納得できる。そうではない。例えば、職場は何らかの事情で追われ、家庭はなにやらのことで追い出され、職場など社会生活に密着した関係の知人からは断絶する。

この場合は、他人には関係なく、幸せな世帯はいるのだから、ある意味絶対的な孤独に陥るわけだ。その時、人ってどうするのだろうかな。この質問を、若い世代にしたことがある。彼は、しばらく考えたのち『自分はモノを何か作ったりすることが好きだから、多分、そういうことに没頭するかな。仕事は食べるだけのアルバイトでもして」と言っていた。

そう、こういうものかもしれない。よく、何もかも無くすと生きる気力もなくしてしまうと考えられる。確かにそうだろう。だが、人などというのは、簡単に死を実行できないのだ。いや、死に進む人間というのは、そういうモノではないことが多い。する人間は、表面的には何もないのにしてしまうことが多い。

いずれにしても、死にも進まない。それでは、何をするのかというと。まずは、食うための動きはする。これは、当たり前だ。生活はするからだ。そのうえで、手にするものは何か。やはり、なんとなく身近でかつ、潜在的にやりたかったことなのだろう。例えば、絵が好きだった人間は、なんとなく絵画を嗜んでみる。身体を動かすのが好きだった人は、とりあえずランニングに凝ってみる、とかだろう。坂口安吾先生は、堕落論のなかで、落ち切ってしまえば上がれる、と書いたが。その上がるきっかけは身近な、かつ自分に向いている簡単なモノではないか。

ところで、写真用品である。そう、そういういろいろなモノを手に取り写真を楽しんでいた人が、いろいろとあって、カメラ趣味を軽くにしようとして経過したのち、手に取る用品といえば、フォトプロの縦横変換プレートではないか。縦横構図を瞬時に変換するアクセサリーである。案外、空白な精神になったら、こういうアクセサリーを手に取り、なんとなく楽しみでするカメラの趣味を復活させるんじゃないか。

まさに、フォトプロの縦横変換アクセサリーは空白の精神でふと手に取れる写真用品だ。

しかし、本当にそうだよなぁ。でも、何もかも無くした時こそ、人は本当の自分を見ることができるかもしれない。やはり、堕落論のように無から立ち上がれである。
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