マルミ光機の新フィルターは全ての物事の本質を感じさせるような商品だ

 最近、日蓮宗の僧侶と話す機会があった。その際に、心に引っかかった話がある。何を拝むのか、という話だ。

彼によると、本来、釈迦牟尼仏も日蓮上人もすべてが、亡くなるときに『自分を拝め』とは言ってないという。あくまで、定めた戒律すなわち法を尊び道を究めていけ、と弟子たちに言っているのである。だが、今の我々はどうしても釈迦そのもの、あるいは日蓮上人そのものも像を作り拝んでいると。

これは、なかなか興味深いことだ。そう、もしかしたら日本固有の在り方かもしれない。戒律などのマルミ.jpg目に見えないものよりも、目に見える存在そのものを大きくみてしまうのだ。

と、そこから考えたのだが。考えてみれば、そうである。我々は、例えば歴史上の人物を見る際にも、その人間の成し遂げたことだけではなく、人物そのものを見る傾向にある。もっといえば、成し遂げた事実よりも人物が独り歩きしてしまい、尊敬の対象になったりする。例えば、活躍があやふやな人物などだ。具体的には、大岡越前などは実際に捌いた名裁判例は、言われている中でもごくわずかだ。多くは、他の者が手掛けたり、あるいは古代中国での裁判例を持ち出していたりする。だが、あくまでも大岡越前なのである。これは、裁判例というよりも民衆の文化保護姿勢を打ち出した遠山金四郎さんもそうだ。いつの間にか、白州で刺青を見せる名裁判官になっている。

ちなみに、ちょっと横道に逸れるが、成し遂げたことが素晴らしくても、人物に親しみが無いために損した例も多い。幕末の桂小五郎こと木戸孝允などは典型で、あまりにも怜悧過ぎて、なんか地元の長州でさえ人気がないという。

いずれにしても、本来は人物よりも戒律を守るという姿勢は本道かもしれない。そういう意味では、マルミ光機が発売したプライムプラズマスパッタリングC-PLは、まさに性能重視だ。超低反射率0.18%を実現。ほぼ完璧なカラーバランスの仕上がりを撮影した作品に提供している。あくまで、製品そのものであり、他の要素は強くは推していない。

まさに、マルミ光機のプライムプラズマスパッタリングC-PLは戒律のみを重視した宗教の原点を思わせるようなフィルターなのだ

しかし、本当にそうだよなぁ。あくまで人は主観だけではなく、律という客観でのみ判断されるべきだ。安酒でブランドなどなくても、自分が美味しいという名目のルールがあれば、人は楽しむべきだろう。
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