セコニックの高性能な露出計で人間の陰日向さも測って欲しいものだ

 光と影は一体である。影の無い物質など存在しない。これが人間なら、さらにその傾向は進む。
いや、自分は陰日向が無いほうだと言っても無駄である。では、人によって、敬語をつかったり使わなかったりするのは何故だと言いたい。常に素の自分でいるなら、そうはならないはずだ。

 もちろん、他人には敬語で話し、親しい知人や家族にはタメ口というやつになる。それは、社会通念上認められていることである。気にすることではない。だが、少なくても全く素のままで生きている人間はかなり少ないということが理解できると思う。

この部分をしっかりと認識しないと、人間が織りなす群像劇のような歴史的な出来事は正しく見ることができない。単純に解釈してしまい非常につまらない結論に達したりする。加賀騒動と言われる御家騒動など、その好例だ。陰謀を企んだとされる大槻伝蔵という家老格の人物は、頭が切れて胆力があるせいか、どうも悪役として定着している。だが、そんな影の部分だけの人物ではない。それなのに、伝蔵の登用に反対してきた側が政権を取った瞬間から影の部分だけの人物にされた。御家乗っ取りを企む悪役にされたのである。だが、当時の制度や習俗から照らして、彼にそのような陰謀を企む余地があったとは思えないと復権している。作家では海音寺先生の悪人列伝にも記されている。

product_photo.jpg日向の面だけ強調されている場合もある。この欄でも以前、取り上げたが。幕末の剣客の沖田総司などは、優しく明るい性格が取り沙汰される。確かに、そういう部分はあったはずだが。基本は剣では天才型で、天才にありがちな、できない人間の気持ちがわからない指導者ではあった。皆、彼から剣の指南を受けるのは嫌がったという。清水次郎長なども中年以降のちょっとした善行がクローズアップされたが、地元では若い頃はゴロツキ呼ばわりされていた。まぁ、やくざさんだから当然だが。

こういうことに惑わされないためにも、人間自体の光量が測れるような露出計があると便利だ。また、陰の部分と光の部分の差がないと少なくとも陰日向の無い人物だともわかる。高性能の露出計を作り当てているセコニックさんなら作れるはずだ。

まさに、セコニックの高性能な露出計なら人間の光量差も図れそうだ[exclamation]

しかし、本当にそうだよなぁ。もっとも陰も程よくあったほうが良さそうだ。
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