山田台紙の台紙とアトリエピッコロの写真封筒は日本人の心に寄り添った提案用品だ

江戸の人間の特徴として、宵越しの銭は持たない、というのがある。これは、言葉通りのもので。その時の稼ぎは宵を待たずに使ってしまおうとうものだ。

 もっとも、これは時代的な根拠がある。当時、木造家屋のみで構成されていた江戸住宅は、ちょっとした火の不始末ですぐに焼失する。まぁ、大商人らは土蔵にしまうという手はあっただろうが。庶民にはそんな術もない。そこそこ稼いで蓄えたところで、すぐに家財はなくなってしまう。その一方で、火事になればすぐに建設需要が生まれるから、仕事は発生してくる。結果、馬鹿馬鹿しいので稼いだ銭は使ってしまって、また働いて儲ければいいというやつだ。

 ここからも理解できるように、宵越しの銭説はきっちりとした根拠があるのだ。少なくても、江戸中期くらいまでは、この理論がまかり通っていた。

 だが。時代は変わる。必ずしも経済はそうでもなくなってきた。使ってしまっても後がない。そうそう都合よくプラスの現象は起こらなくなったのだ。

R_fathersday_rose_TT_blue20150521.jpg では、江戸庶民・・いや、もはや時代とともに格差はなくなったので、日本国民はどうしたのだろうか。当たり前だが、銭を用心深く管理するようになった。ただ浪費するのではなく、蓄財のために投資したり、あるいは自己投資ということで使ったり。あるいは、全く使わないという方向性に行くようにした。

 これは、まぁ当たり前のことだろう。それはそれで仕方ない。だが、問題は精神の残骸である。

 器用な日本人としては、現状に合わせて実質を変えたとしても、宵越しの銭の精神は残したのである。それは、何か。記憶を飾るという行動パターンである。あの銭を失ってしまっても美しい花火は見てやる、という記憶経験は根強く残してきたのである。

 ものはなくなる。だが、自分の楽しい記憶は残す。そのための仕掛けをいろいろと考えてきた。そのひとつが、写真というツールでもあるのだろう。しかしながら、ここで日本人の器用さが侵食してしまう。この写真分野にも、データ化という能率性を取り入れて、収納などの手間をかけることない画像保存という手段を選択したのである。

 これはこれで仕方ないのかもしれない。また、若い層に限ってそういう傾向が強いのも時代の流れととともに仕方ないのかもしれない。

 だが、そんななかで、画像保存という合理性優先の手段に対して、きっちりとした記憶の保存という、本来の記憶を飾るという江戸庶民の精神にのっとった動きをする傾向が出てきた。写真をプリントして、額縁に飾ったり、台紙に入れてギフトしようという動きである。しかも、そのためにちゃーんと日本人の合理性にも考慮している。受け入れやすいような形にして提案しているのである。

_S0A3182ピッコロ.jpg そういう意味での写真用品である。まず、台紙では本欄でも度々登場させている山田台紙である。ここは、手軽にかつ品質の良いものをギフトする台紙ということで提案している。デザインもイベントごとに設定されており、柔軟だ。これからなら父の日ギフトだろうか。さらに、これは用品メーカーとは言えないかもしれないが、写真家の鈴木さや香さんが自身の店であるアトリエピッコロで提案する「写真封筒」である。写真を封筒にして残して楽しく送ったり、飾ったりしようという提案だ。台紙にしても、封筒にしても今の時代の日本人にマッチしつつ、精神に働きかける写真商材なのかもしれない。

 まさに、アトリエピッコロの写真封筒と山田台紙の台紙は日本人の心に合った提案用品、なのだ。

 しかし・・宵越しの銭は持たない。そうだよなぁ。基本、少ない原資をやりくりしてでも呑んでしまう。酒に消えてしまうのだ。これを、自己投資などというものに使ったら、もっと偉い人間になっていたかもしれない。。とりあえず、そのことを酒を呑みながら反省することにする。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0