ベルボンのUTC-63は自然の流れに沿った売れ筋三脚だ

昔から、全てを無にしたくなるような衝動に駆られるときがある。だいたい、心の中で葛藤することがあり、その後の物事の継続が面倒くさくなるのだ。例えばである。積み木を積んでいたら、凝ったものにして9分通りできたところで、その後に自分が喜んだり、人に見せたりといった決まりきった手続きが続くのが嫌になってくるのだ。これをやめて、もう一度、シンプルな部分から立ち上がりたいというやつだ。結果、積んでいたものをグチャグチャにする。

 utc63_0480.jpg人のものを崩すのではなく、自分のものを崩すのであって、それほど社会に影響を与える行為ではないせいか。この癖のようなものはなかなか治らなかった。だが、この行為は。非常に馬鹿馬鹿しいものではあるのだが、妙な爽快感を覚えて清々しい気分を残したりするから不思議だ。

 と思っていたら、そのうち坂口安吾の堕落論を読んで納得した。彼は明確な形で、この衝動後の清々しさとパワーのようなものを描写していたからだ。そう。彼が書いているように、自己の持つちっぽけなものなど破壊したところで、たかが知れている。根本的なものは残るのだから、また立ち上がっていくというわけだ。まぁ、でもこれは人間の生き方だけではなく、世の中の動きも同様だろう。破壊と建設、これの繰り返しによって社会は自然と熟成してくる。それも真理ではないか。

 やや大きな話になってしまった。だが、こういった破壊衝動と無からの開き直りによって大胆な行動に出た人間は意外に多い。福澤諭吉などというのは、身につけた蘭学をいともたやすく捨て去っている。当時は、今後の世の中の流れなどわかるわけないのにだ。彼はそういうところがあって。後年、慶應義塾の経営が苦しくなったら、閉鎖を真面目に考えた。それも、意外にあっさりとした感じでだ。さらに強烈なのは、少し前の時代の吉田松蔭だ。ともかく、自分の主義のためにはすべてのものを捨て去り突進していく。ある歴史作家が評していたのだが、もし彼が憲法改正論議に加わっていたら、全て捨てて自分たちで作り直せ、それで現行のものと全く同じものができたとしてもいいではないか、という発想をするだろう、と。

 これらに言えることは、守ろうとすると弱くなる。逆に、自分の今までのものを守ろうとしなければ、その先があるということでもある。破壊して改めて建設するという、一連の動きは繰り返すように、自然の流れかもしれない。もっとも、こちらのような平凡以下の人種であれば、守るべき身分も財産も信念もないので、破壊しても建設もなにもないのかもしれない・・。困ったものだ。

 ところで、写真用品である。ベルボンのUTC-63が売れている。カーボンタイプの徹底させた剛性と持ち運びに便利な優れた軽量性がウリだ。これなど、一度、トラベル三脚というものの利便性に偏る部分を崩して、剛性というものを大きく取り入れている。結果、持ち前の軽量性というものをミックスさせることに成功させたというわけだ。店のスタッフが気に入り客に勧めるという異例のパターンの商品だ。

 まさに、ベルボンのUTC-63は世の中の流れに自然に乗った三脚、なのだ。

 しかし・・どうも、このプチ破壊と仕切り直しという癖は良いオヤジになってもそのままだ。まぁ、フリーのライター時代も含めると、お陰で様々な業界を経験できたので、つまらない見聞は広がった。なので、良しとはするか。。と言いつつ、価格破壊の酒場でハイボールを呑んでいる。。
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