ケンコートキナーのスキャナーは家族の団欒を呼ぶのだ

 当たり前の日常というのは、実は非常に貴重なものだ。何かの拍子に、それが崩れた時に大切さがよくわかる。これは、だが、この当たり前をあたりまえにするというのは、行為でも同じだ。それが、なかなかできない。

kfs-14ws.jpg例えば、自分にとってしてほしくない行為というのは、だれにもあるだろう。これを、考えない人間が意外と多い。相手への想像力が著しく欠如しているタイプだ。実は、先日、郵便局の窓口で局員に対して、頭がおかしい、と言い放っていた人がいたが。どんな理由があるにせよ、人に言うセリフではないだろう。そもそも、自分が同じことを言われたら、どう思うかを考えられないのだ。知人の家の奥さんは、亭主に向かって『あなたに毎日温かいご飯を食べさせるメリットはないのにしてやっている』と澱に触れ言うそうだ。確かに、その亭主より高収入ではある。思うのは勝手だ。だが、それをたびたび言われたら、どう思うのか、とは考えられない。

このように、当たり前の行為をする人もいないケースもあるのだから。ましてや、冒頭書いたように当たり前の日常を実現するのは難しい。だいいち、その当たり前の生活のためには、経済すなわち一定のお金は必要だ。夏目漱石だって、理想である文学的生活を実現するためには、徹底した賃上げ交渉を行っている。どうあろうと、当たり前の日常にはお金が必要なこともよくわかる。

ところで写真用品である。当たり前の日常風景と言えば、わが国だと家族の団欒などがあるだろう。その団欒にも一役買えるのがケンコー・トキナーのスキャナーである。写真が趣味のお父さんが、ここでフィルムをスキャンしながら、テレビにつないで大画面で写した風景を家族に見せて笑顔の時間が取れそうだ。

まさに、ケンコー・トキナーのフィルムスキャナーは何気ない家族の団欒を呼ぶのだ。

しかし・・本当に当たり前の日常を維持するのは大変だよなぁ。このブログだって、毎週更新のはずが、こんな間隔になってしまっているのだ。。
nice!(0)  コメント(3)