ケンコー・トキナーのLUME CUBE AIRは新たな価値観を明るく照らすのだ

 もはや、あらゆる縛りがない時代だ。その背景になっているのはSNSの発達による価値観の崩壊だろう。だが、もともとすべての既存の価値観には根拠などなかったのである。SNSの発達などは、その要素のひとつであって、もともと平成まで引っ張ってきた価値観は脆弱な土台の上に成り立っていたのが明確になったのだ。

ルミキューブ.JPG例えば、男らしさとか女らしさの概念だ。もはや、男だからどうとかというのはあり得ない。一昔前は、保育園の男性保育士など考えられなかったはずだ。だが、保育士が必ずしも女性である必要などないのだから、そういった薄弱な根拠だったということになる。セクハラやパワハラに関してもそうで。本来は、同じ職場だからといって、他人に対して暴力的言動を投げつけたり、猥褻行為に及ぶのは許されることではない。それを、終身雇用が保証された時代は、家族だからということで、する方もされる方も許されることだと思っていた。結果、国の対応も遅れてきた。

これは教育についてもそうだ。昔は通信制高校などは無かった。人間関係を学ぶのも教育だとみなされ、通学しクラスでの関係も重視されてきた。だが、単に知識や教養を身につけるなら、通学もクラス仲間も必要ではない。人間関係云々の構築は、SNSを活用するなどして個人に任しても良い範囲だろう。

こんな概念無き世の中だが、逆に考えれば自由に概念を作ってもいいということだ。初めに戻るが、そんな新たな概念を作り出すサポートをするのが、SNSであり、さらに言えばその新たな表現手段を支える木材だろう。

ところで写真用品である。ケンコートキナーでは来月に、小型ライトのLUME CUBE AIRを発売する。前機種より、さらに小型化して操作性を良くしている。アプリによりスマホから操作できる。簡易になったが、色温度は5600Kだし、照度は400LUXである。その割に想定価格は8,800円と値ごろ感がある。ケンコートキナーの担当者は、新たに動画制作するアマチュア層や、インスタ映え画像を狙う層など、価値を自由に作っていく新時代の流れの人々をサポートしている。

まさに、ケンコートキナーのLUME CUBE AIRは自由な価値観作りをサポートする、のだ。

しかし、本当にそうだよなぁ。まさに自由なのだ。そういう意味では、ケンコートキナー自体も、もはや写真用品メーカーの概念は越えている。こんな時代は実は、面白いと思う。
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市川ソフトのSILKYPIXはアマも非日常の芸術作品を創れるのだ

 今やプロとアマの区別は難しい。どういうことをするのがプロで、何をしないのがアマなのか。

product-key-visual-ds9.jpgだが、やはりプロとアマには決定的な差がある。そのうちのひとつが、日常と非日常の差をつけられるかではないだろうか。

例えば、お笑い芸人たちのひな壇での発言である。一見、好き勝手に発言しているように思うが、あれは周知のように、かなり頭を働かせて自身の立ち位置を考えつつ、インパクトを与えるように動いている。日常の発言のように見せて、実は非日常な動きを高度なテクニックで行っているのだ。テレビドラマの俳優の所作もそうだろう。日常の生活を演じているシーンでも、よくみると、あんなかっこよくスムーズに動いている人間はいない。実は非日常を巧みに日常の場面に潜り込ませているのだ。

歴史上で言うと、大阪の陣の際の柳生宗矩の動きだ。戦場という殺し合いの場では、それこそギリギリのえげつない日常の感覚が出るが。その中で、彼は円のような動きで6名くらいをスムーズに斬り伏せ、徳川秀忠の窮地を救ったという。武芸者というだけあって、日常のどぎつい場の中で非日常の姿を体現したのだ。

ところで、写真用品である。日常を非日常という芸術の域まで高められるのが、市川ソフトラボラトリーのRaw現像ソフトのSILKYPIXだが、その最新版がDeveloper studio9だ。撮影したままの日常そのもののRawデータを、自分の志向で自由に補正し、非日常の芸術作品を生み出せるのだ。

まさに、SILKYPIXはアマが非日常的な芸術作品をも作れるソフト、なのだ。

しかし、日常と非日常の差は大きいよなぁ。例えば、自宅近くの安酒場で呑むのは日常だが。銀座の海軍バーで軍歌を歌うのは非日常だ。まぁ、軍歌は得意だが銀座のバーは行けないが。

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マルミ光機のソリッドは吉田松陰先生の信念のように硬いのだ。

 頑なと言われようが、自分を貫く。良かろうが悪かろうが、これが自分だと開き直る。そういう人間には、なれないが敬服する。もちろん、ただ無知なだけの思い込みでは意味がない。全てを承知している上で、敢えて頑なを貫く場合だ。

ここのところ、歴史をリアルに実証するようなテレビ番組や書籍が目立つ。磯田先生や中世史の呉座先生など引っ張りだこだ。それらを観たり読んだりして、ふと思ったのだが。あまりにもリアルを追求するあまり、従来からのファンタジーをあからさまに否定するのはどうだろうか。

emedama_4957638098014.jpgとは言っても、かくいうこちらも一時期、実証にこだわって歴史を考えていた。最初に読んだ故樋口清之先生の本に影響を受けたからだ。だが、中年から初老の年齢になり思ったのは。歴史とレキシは分けて考えても、いいのではないかということだ。例えば、明智光秀の謀反は、資料をまともに読むと単なる本人の単独実行だろう。織田信長の遺体が出なかったのもDNA鑑定が無い時代だから、黒焦げの遺体のなかから選別は無理だろう。

だが、やはり、これは黒幕に豊臣秀吉や家康あるいは朝廷がいた、とか。いろいろ考えて盛り上がりたいのだ。坂本龍馬暗殺も、単なる手配犯を見回り組が急襲しただけかもしれないが。実は武力倒幕にこだわる西郷隆盛が背後に居たほうが面白いのだ。あくまでも史実ではない可能性が高いと認識しているなら、自分はこう考えていると頑なに貫いてもいいのではないだろうか。また、逆に歴史学者の大先生がレキシを楽しむ人々を批判する権利などないと思う。

少し話しがずれるが。そもそも、世の中を動かす原動力となってるのは思い込みのパワーだ。この人や機関がこう表明したから、株価や為替が動く。政局も動く。ある種の思い込みや推測で動いているのである。盲信は最悪だが、知に裏付けされた頑な思い込みなら結構だと思う。

歴史上の人物では、吉田松陰先生など、まさに叡知ある思い込みの偉人だろう。

ところで写真用品である。マルミ光機からソリッドという超硬質なフィルターが出ている。ともかく硬いのである。象が踏んだら壊れるかもしれないが、ライオンくらいなら踏んでもびくともしないだろう。しかも、周知のように、マルミは通常のラインも充実している。叡知があるのだ。

まさに、マルミ光機のソリッドは吉田松陰の信念の如く硬いのだ。

しかし、本当にそうだよなぁ。頑なは大事だろう。敢えて突き進めばいい。行け行けドンドン正々堂々、と龍馬と同時代の中村半次郎先生も言っている。
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山田台紙の台紙は自分勝負の証を残すものなのだ

 さて、今年最初のブログだが。やはり、起業組を取り上げたい。山田台紙店である。

R_sotuenn_sakura_YY_pink20140318_1521359597557_400.jpg何度も書いているように、サラリーマンからの起業というのは非常に難しい。いや、物理的な困難さではない。それは、もちろん大変だが。そんなことは、覚悟の上だろう。問題は精神面だ。不満はあっても、一応、安定した地位を捨てることになる。これは、想像し難いのではないか。実際に、山田台紙より前に起業したサンアイの社長は創業後に語っていた。楽と言えば、サラリーマンのほうが楽に決まってる、と。

だが、なぜ起業するか。これは究極的には、自分で勝負したいからだろう。金だけが稼ぎたければ投資を研究すればいい。友人にもいるが、平均的なサラリーマンの年収くらいなら、少し勉強すれば、誰でも稼げるようだ。だが、そういう問題ではないのだろう。どこかで、人は自分勝負をしたくなる。その気持ちがやむにやまれなくなった一部の人間たちが起業することになる。

それには、もちろん。ある種の安定を捨てることになる。KANIフィルターを書いた時にも記載したように、てどこかでリスクを読まないバカモノの要素を持つしかない。要は、自分勝負を熱望するチャレンジャーが起業するのか。

ちなみに、山田台紙に写真を使う人たちは、習い事など自分のチャレンジの証を残す。

つまり、山田台紙の台紙は自分勝負の証を残すもの、なのだ。

しかし、本当にそうだよなぁ。起業はいろいろ大変だが。やはり人の生きざまを燃焼させる。人はパンのためにいきるにあらず、とはよく言ったものだ。いずれにしても、今年もこんな起業組も応援したい。あっ、こちらが逆に起業するとか離脱するとかして、業界紙を離れたら保証の限りではないが。。
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